原爆の図 丸木美術館

原爆の図
わたくしたちは原爆でおじをうしないました。めい二人も死にました。妹はやけどをし、父も半年後になくなりました。知人友人をたくさんうしないました。

位里は三日目に東京からはじめての汽車で、俊も続いて広島へ入りました。爆心から二キロちょっとの所に、わたくしたちの家が焼け残っていました。

けれど屋根もかわらも窓も、台所のなべもはしも茶わんも、みんな爆風で飛んでしまってありませんでした。それでも家は焼け残っていたものですから、大勢のけが人がたどりついて家中いっぱいに倒れていました。

けが人を運んだり、死んだ人を焼いたり、食べ物を捜して歩いたり、焼けトタンを拾って屋根にのせたり、屍の臭と、はえとうじの中を原爆にあった人と同じように、さまよい歩いておりました。

九月の初めころ東京に帰り、戦争の終わったということがはっきりわかりました。広島では戦争が終わろうが終わるまいが、考える力も失ってしまっていたのです。

原爆の図を描き始めたのは三年もたってからのことです。

自分も裸になって当時の姿を思い起こして描き、原爆のことならと、モデルになってくださった人々。

十七才の娘さんには十七年の生涯があった、三つの子には三年の命があった、と思うようになりました。絵の中にはデッサンも合わせて九百人程の人間像を描きました。たくさん描いたものだと思いました。けれど広島でなくなった人々は二十六万人なのです。広島の人々の冥福を祈り、再び繰り返すな、と描き続けるならば、一生かかっても描きつくすことの出来ない数であったと気がつきました。

絵でさえも一生かかっても描ききれない程の人の数が、一瞬間に一発の爆弾で死んだということ、長く残る放射能、今だに原爆症で苦しみ死んで行く人のこと、これは自然の災害ではない、ということ。

わたくしたちは描きながら、その絵の中から考えるようになりました。

丸木位里
丸木 俊