山崎近道
現在の鹿児島県枕崎市に生まれる。1922年、18歳でカリフォルニアのインペリアルバレーで農夫をしていた父親のもとに渡る。1928年頃からサンフランシスコのカリフォルニア美術学校に通い、野田英夫や寺田竹雄と友人となる。1931年の夏には、ウッドストックで野田英夫と鈴木盛と一軒家を借りて共同で生活し、ニューヨークでは、アート・ステューデンツ・リーグに学ぶ。1936年には、戦争とファシズムに反対して組織された左翼グループであるアメリカ美術家会議に参加。また1935年と36年に紐育新報社が主催したニューヨークの邦人美術家の展覧会(ACAギャラリー)にも出品した。1935年からWPA(公共事業促進局)の仕事として石垣栄太郎が取り組んだハーレム裁判所での壁画制作にも、助手として参加している。1930年代後半に西海岸に戻り、ロサンゼルスに住む。第二次世界大戦中は、最初はサンタアニタの集合所に、その後ワイオミング州のハートマウンテン収容所に収容された。戦後は、アメリカ陸軍の軍属として働き、インド、中国、日本での勤務中にスケッチも残した。
- 山崎近道《無題(ハートマウンテン、煉瓦の建物を造る》 :
- 1942年 インク・鉛筆、紙 全米日系人博物館蔵