石垣栄太郎
和歌山県東牟婁郡太地村(現・太地町)で、船大工の子として生まれる。1909年に先にアメリカへ渡っていた父に呼ばれ、渡米。シアトルからベーカーズ・フィールドなどで働き、1911年にはサンフランシスコに移る。日本人のメソジスト教会で英語や聖書、社会主義の本などにも親しみ、詩人の管野衣川と、その妻の彫刻家ガートルード・ボイルと知り合う。ガートルードの紹介でウィリアム・ベストの私塾や美術学校に通う。のちにガートルードとは恋愛関係となり、1915年にニューヨークへと移る。アート・ステューデンツ・リーグでジョン・スローンに学び、国吉康雄や清水登之らと知り合う。1918年には、片山潜を中心とする社会主義研究会(在米日本人社会主義者団)に加わる。画彫会の結成に関わり、1922年「ニューヨーク市日本人美術家協会絵画彫刻展」、1927年「紐育新報社主催 邦人美術展覧会」などにも参加。1925年の第9回独立美術家協会展に出品した《鞭打つ》がアメリカの画壇へのデビューとなる。1929年、ジョン・リード・クラブに参加し、メキシコ壁画運動の担い手であるディエゴ・リベラたちと知り合う。1935年には、WPA(公共事業促進局)の仕事として、ハーレム裁判所の壁画制作に主任として携わるが、アメリカ市民権がないことから解雇された。太平洋戦争時は、敵性外国人として規制を受けながら、妻の田中綾子や国吉康雄とともに日本の軍国主義を批判する。戦後、レッドパージ(赤狩り)によってアメリカを追われ、1951年、帰国。本格的な活動をできないまま、1958年に65歳で死去。
- 石垣栄太郎《ボーナス・マーチ》 :
- 1932年 油彩、キャンバス 和歌山県立近代美術館蔵